講演会 多和田葉子「多言語網の中で小説を書く」に行きました

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日程:2010年6月7日(月)
時間:19時00分〜20時30分
会場:大岡山キャンパス西9号館2F ディジタル多目的ホール
講師:多和田葉子

講演内容:

ドイツに渡った時はまさか自分がドイツ語で小説を書くようになるとは思って
もいませんでした。でも暮らしているうちにどうしてもドイツ語でアイデアが
浮かぶようになってきて、気がついたら十冊以上も、ドイツ語で本を書いてい
ました。この頃思うのですが、母語と外国語があるわけではなく、詩を通して
すべての言語はつながっているのです。また日本語の中にも漢語や外来語がた
くさん入っていて、そういう意味でも日本語自体がすでに多民族国家なのです。

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私による要約:

人は誰しも母語を持っている。それ以外は外国語である。人によっては母語が
複数あるかもしれない。それでもすべての言語を母語とすることは無理なので
誰にとっても母語と外国語がある。

母語は自分が何かを表現するのを助けるが同時に制限する存在だ。それは文法
や言語の特性といったこともあるし、言語習得が自我の発展と切り離せないた
め、自我の形成以前のことを母語では表現できないと言ったこともあるのでは
ないか。特に後者が重要である。

この障害を乗り越える一つの方法として外国語で書いてはどうか。母語からの強
力な枷を乗り越えるよりも外国語を習得してそれで書いた方が容易だ。各言語
の不合理な規則は障害にならない。それを楽しむことで新たな表現が可能にな
る。本質的に言語は他者なのである。表現は他者との格闘の中で得られる。私
たちは母語と格闘することは困難である。

ただ、言語は人間が長い時間をかけて作り出したものであるから表面的な特徴
や文法の違いはあっても根底にある種の構造があるのではないか。それが顔を
のぞかせるのが詩である。言葉によって隠された人の想いが詩という極限状態
で表れてくる。

感想:

言語の身体性と言っていたが、それは「言語における共感覚」と言い換えても
いいのではないか。文学が書かれた芸術である以上、ストーリーとは別に字面、
音節、形式によって表現できることはあるし、表現すべきなのだろう。その意
味で、小説の他言語への翻訳は本質的には不可能というのはうなづける。

私が何かを書こうとするとき、まず頭の中にもやっとしたものが現れ、それが
0.1秒後には母語(日本語)の文字に展開される。長年の訓練によってそれは
かなりのレベルまで私が書こうとしていたものに近いが全く同じとはいえない。
ではそれを外国語で行ってみたらどうなるのか。展開がうまくいかない分より
純粋に元々頭の中にあったものに近付けるのではないか。そうして現れた私の
「表現」は母語での表現と同じかどうか。そういった訓練を経て改めて母語で
表現する「私」はどうなるのか。

というわけで気が向いたらこのブログを英語で書きます。(←えっ?)

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